2009年4月5日日曜日

但願人長久


但願人長久

明月幾時有
把酒問靑天
不知天上宮闕
今夕是何年

我欲乘風歸去
唯恐瓊樓玉宇

高處不勝寒
起舞弄淸影
何似在人間

轉朱閣低綺戸照無眠
不應有恨何事長向別時圓

人有悲歡離合
月有陰晴圓缺
此事古難全
但願人長久
千里共嬋娟


 これは、蘇軾(1036-1101)の詩です。この詩に曲をつけて、鄧麗君が歌っています。とても美しい歌です。

 九百年前の詩に曲をつけるなどとは、実に浪漫的なことです。日本語ではあまりに古風なものとなってしまうので、きっと無理でしょう。万葉集などに曲をつけても、冗談のようなものになってしまうでしょう。残念です。もっとも、軍歌「海行かば」は、大伴家持の歌に曲をつけたものですが。

  テレサ・テンの死後、この歌は、王菲(フェイ・ウォン)が歌っています。

 安妮宝贝の『告别薇安』(さよなら、ヴィヴィアン)という小説がありますが、そこで出てくる娟生という女の子がこの曲を聴いています。 主人公の女性は一緒に聴いているのですが、聴くのがつらいと言います。

 这样哀怨的靡靡之音,苏轼的词在王菲的唱腔里让人听着难受。

 娟生はその後、自殺します。突然の死に、読者も戸惑います(あれ、言わなかったほうが良かったかもしれません)。
 安妮宝贝は毀誉褒貶の激しい作家の一人と言えるでしょう。陰鬱な作品が多く、青少年に悪い影響を与えると批判されることもあります。いわゆる文学青年や文学少女に愛好されています。ただ、その作品は無意味に重苦しいのではなく、いたずらに絶望を好んでいるわけではありません。生活を楽しむとはどういうことか、というのも彼女の問いの一つです。

  『素念锦时』より

 記憶とはこんなものではないだろうか。それは、川の流れのようなものではないだろうか。途切れることはないが、始めがあって、そして終わりがある。記憶が湧き出る泉は枯れることはない。始めがあり終わりがあり、根源は枯れることがない。

 故郷へは再び帰ることはできない。わたしのふるさとと家族の記憶は、父が不要の領収証や紙のたぐいを貯めこむのと同じようなものだ。もう再び生まれることはない文字の記録、映像のありか、感情の幻像なのだ。
 それらは、ただ存在するものなのだ。時が過ぎることで、互いの理解は深まり、互いが照らしあうことができる。そして、人の寂しさは増してゆくのだ。

 記憶はまた時に、むなしく定まらないものだ。まだらに交錯しているものなのだ。それは、わたしを故郷と子供時代にさかのぼらせる。でも、物はすでになく、人もいない。もう根っこは失われてしまったのだ。

 それは、大海にただよう動けなくなった廃船のようなもの。にぎやかで、はなやかだが、しだいに沈んでゆくものなのだ。ほんとうに、もう求める方法はないのだ。自分の家の表札は覚えているのに、当のその家はすでに壊されてなくなっているようなものなのだ。

 その時、ただ一つだけあるのは、真の記憶の虚空だけである。

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